努力と才能は別のものではなく才能は努力を内包する

努力で才能に勝つお話とか、才能が無くて辛いみたいな話をしている人に対して努力が足りないと言ってみたりだとか、そういったものをよく見る。

しかし、いつも思うのはいっぱい努力できることそのものが才能なのではないかということだ。逆にいうと努力ができない人は根性がなかったり、能力が足りない人は努力が足りないのでは無く、努力する才能が足りないのではないかということだ。

いわゆる努力の対義語として使われる才能は、訓練なしにある程度できるという意味で使われる。例えば、めちゃくちゃ論理的思考力があってめちゃくちゃ記憶力のいい人が、普通に学校の授業を受けて、特に家で自習したりせずになんと無く東京大学に入れる、みたいな場合はこの意味での才能だけで、なんらかの結果を手にしているケースだ。

しかし多くの場合、努力を内包した才能訓練なしに何かができるという意味での才能がごっちゃにして語られていることが多い気がする。

何を言いたいのかというと、努力は解決できる問題で、才能は解決できない問題だと思っている人がたくさんいるが、両方とも解決できない問題なのではないかということだ。努力して何かを得た人は、そうでない人に対して「もっと頑張れば何かを得られるのに」と思い、その思いをそのまま努力の才能がない人にぶつけたりするが、そんなことをしても無駄であり、それはただ努力の才能がない人を傷つけるだけの行為なのではないかということだ。

なぜ無駄なのかというと、それは努力の才能がない人努力ができないからだ。なぜ努力ができないかというと、努力の才能がないからだ。

問題はこの考え方が何かを解決するかというと、特にしなさそうだというところだ。 ただ、私がなんと無く思っているのは、努力の才能がない人努力をしない人は純粋なイコールではないので、努力をしない努力の才能がある人に努力をさせることは可能だということだ。

「もっと頑張れば何かを得られるのに」という思いを人にぶつけたい場合は、「もっと頑張れ」とか「もっと頑張れば何かを得られるのに」と伝えるではなく、どうしたら努力をする考え方のパターンを身につけられるのか伝えたり、そのように誘導することが大切なのではないかと思う。

その手段が「もっと頑張れば何かを得られるのに」という思いをそのままぶつけることなのだろうか。