給料の交渉についての怪文章

「交渉すると給料が上がる」「給料は交渉すべき」と言った話をたまに聞くが、給料の交渉が嫌いなので考えてみた。 これは真面目な考察ではなく、自分の感情に対する整理のための怪文章である。

特に後半は完全な怪文章となっている。

交渉しなくても上がる組織にいた

新卒で入社した会社に4年くらい在籍していたが、結構どんどん給料が上がる会社だったと思っている。 実質給与改定の時期というものはなく(本当はあったのかもしれない)、1年の中でも勝手にどんどん上がる組織だった。

これにはいくつか理由があると思っていて、なんとなく思いつくのは

  • 組織の人数が少ない(20人くらい)
  • 受託開発だった

あたりだろうか。

組織の人数が少ないとなぜ給料が上がりやすいと思うのか

まず単純に、「評価」という点においてマイクロマネジメントがしやすいからじゃないかと思う。

特に、「給料をあげる」権限を持っている人の人数に対して、「給料をあげられる側」の人数が少ないため、「給料をあげる」権限を持っている人が「こいついいじゃん」と思ったら給料が上がるのである。

組織の規模が上がると、「給料をあげる」権限を持っている人と、「給料をあげられる側」の距離が遠くなるのではないか。

「給料をあげられる側」には多分上司がいて、上司がその人の評価をするのだが、上司が「給料をあげる権限」を持っておらず、さらに上司の上司も「給料をあげる権限」を持っていなかったりすると、直属の上司が「あいつ良い」という話をしても「給料をあげる権限」を持っている人の心に響かなければ給料は上がらない。

さらにそれが上司から上司に向かってどんどん伝言ゲームが続くことによって、最悪直属の上司の「あいつ良いです」が途中で消滅し、「給料をあげる権限」を持っている人まで届かない可能性がある。

この場合、当然給料は上がらない。なぜなら、「給料をあげる権限」を持っている人は「あいつが良い」ということを知らないからだ。

交渉によって給料が上がる、というケースにはこの「伝言ゲームによって消滅した{あいつ良いです}を無理やり{給料をあげる権限}を持っている人に届かせる」働きがあると思う。 給料の交渉の場には、おそらく「給料をあげる権限」を持っている人がいる可能性が高いからだ。

話がそれるが、自分がメインでやっているタスク以外によく絡む人(球拾いをする人)の給料が上がりやすいという話をきく。 これは、「球拾いがえらい」からではなく

  • 給料をあげる権限を持った人の視界に入る可能性が高い
  • 伝言ゲームの数そのものが増える(いろんな人から「あいつは良い」が発信される)ことで、給料をあげる権限を持った人まで届く可能性が上がる

からなのではないか。

えらいのは球拾いをすることではなく組織の目標に近づけた量が大きい人だと思うが、組織の目標に近づけた量の正確な計算は限りなく難しい。

ただし、よく球拾いをしている人ってそもそも能力高いこと多いなーっていう気もする。タスクを振るひとの想像よりもタスクをこなすスピードが早くて、その隙間の時間で球拾いをしているのでしょうか。

受託開発だった

多分どの組織もトータルでの利益や売り上げの計算はできるが、誰の影響が何割ずつ利益に影響があったのか?はかなり計算が難しいと思う。

特に、何かサービスを提供するビジネスモデルでは、正確な計算はほとんど不可能に近い。

しかし、私は受託開発をメインとする会社で働いていたため、少なくとも「チーム」で「どれくらいの売り上げが出ているか」はかなり正確な値が計算できた。

チームの中で各自がどれくらいの売り上げが出ていたか?についてはどのような評価基準があったのかわからないが、チームの規模は小規模(3〜5人くらい)だったので、印象に対する結果の精度もある程度出ていたのではないかと思う。

また、チームリーダーになって以降おそらく評価の基準は「どれだけ利益をあげたか」だったので、私に対する評価の計算は簡単だったのではないだろうか。

給料の交渉が嫌い

なんで嫌いなのか、については

  • そもそも金の話をするのが美しくないという風潮がある
  • 自分のタスクが金額に換算するとどうなるのか自分でわからない
  • 交渉によって給料が上がっても不愉快

あたりが思いつくが、おそらく私に関しては「そもそも金の話をするのが美しくないという風潮がある」はあまり関係ない。なぜなら私は金の話をするのが大好きだからだ。金の話ばかりしている気がする。

自分のタスクが金額に換算するとどうなるのか自分でわからない

これは結局「誰の影響が何割ずつ利益に影響があったのか?」が自分でもわからない、という話であり、根拠のない金額の提示をするのが嫌だという話だ。

さらに他人にもおそらく正確な値は出せないので、「交渉相手が出した私の価値に対してのおそらく不正確な想像」と「自分で思っている私の価値に対してのおそらく不正確な想像」を戦わせるのが不毛だと感じるからである。

そして、「交渉相手が出した私の価値に対してのおそらく不正確な想像」と「自分で思っている私の価値に対してのおそらく不正確な想像」がズレていた時におそらく、少なくとも私には大きなストレスがかかることが想像できる。

交渉によって給料が上がっても不愉快

まず、「交渉相手が出した私の価値に対してのおそらく不正確な想像」と「自分で思っている私の価値に対してのおそらく不正確な想像」が「自分が思っているほど自分の価値がないと思われているケース」だが、これはもう確実にストレスがかかる。

これはまあしょうがないと思うんだけど、問題は「交渉によって給料が上がる」ケースだ。

交渉によって給料が上がることによる不快感はざっくりいうと、「100万円の価値があると思っている相手が80万円で働いていても文句を言わないからラッキー」という状況なのでは?と思っているように感じてしまうからだ。

まあこのラッキーをベースにした決定が間違っているかというとそうでもないと思うんだけど、個人的には嫌いだ。

なぜなら大抵の人が金を欲しいと思っている(と、思っている)からだ。

大抵の人が、というところが重要で、そうでないのであればこの考え方は間違っている。給料が増えるというイベントが精神に全く影響を与えない人に対して給料をあげる必要はないと思っているからだ。人類の幸せの総量はあげていくべきである。

このイメージはなぜか「学校の掃除をサボる」という行為に対する感情に似ている(ちなみに、このイメージは間違っていると思っている。個人的な感情の話である)。学校の掃除をサボった人に対してのリスクや罰則はほとんどなかったように思えるが、掃除を真面目にやっていた人たちはおそらく「掃除が好きだから掃除をしていた」訳ではなかったはずだ。(中には一定数そういう人もいたと思うが)

言いたいのは、やりたくないがゆえにやらなかった人を罰せよ、ということではなく、「やりたくないのにやった人」と「やりたくないからやらなかった人」の境遇が同じなのではおかしいのではないか?という感情についてだ。

この感情については理由がまだいまいちしっくりきていない。

結論

ここまで書いて、「交渉」はそこまで間違った行為ではないなとも思えた。

交渉によって評価の精度が上がる可能性があるからだ。

嫌いだという感情は依然として変わらない。

100万円分の仕事をした給料を100万円もらっている人と、100万円分の仕事をした給料50万円の人が混在する状況は気持ちが悪いし、それを埋めるのが「交渉」なのは感情的に嫌いだからである。

個人的には、評価の精度を「交渉した後の結果」と同じくらいまで出せる仕組みを持った組織で働きたい。これは精度の話ではない。

交渉によって給料が上がった実績のある組織は、その仕組みを持っていないか、文句を言わない相手に対して貢献度に比例した給料を払う必要はないという前提で動いている組織である。嫌いだが間違っているとは思わない。

ただし、ストレスなく交渉をできるようになれるのであれば、そのほうが幸せになれるとは感じている。 自分の幸せに向かって組織を変えていったり、そういった組織を1から作る、ということがサクサクできるほどの能力を自分に感じていないからだ。